大宰府(だざいふ)とは [歴史・九州・観光]
古代において西海道(さいかいどう)(九州)全域を行政下に置き、外寇(がいこう)の防衛と外交の衝にあたる権限を与えられた官庁である。
それに類する役所の起源については3世紀、卑弥呼(ひみこ)が伊都(いと)国に一大率(いちだいそつ)を置いて大陸交渉の監察にあたらせたこともあげられるが、6世紀の前半、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の平定後、宣化(せんか)天皇は那ノ津(なのつ)に官家(みやけ)を設け、諸臣に命じて軍粮(ぐんろう)を運輸せしめて非常に備えさせたことをあげるべきであろう。
だが、実際に「筑紫大宰(つくしのたいさい)」の名の初見は、609年(推古天皇17)である。推古(すいこ)朝は、新羅(しらぎ)問題がしばしばおこり、また遣隋使(けんずいし)派遣も始められるという外交上重要な時期だけに「筑紫大宰」の任も重かったようである。
大宰府の大きな転換期となったのは、白村江(はくそんこう)の戦い(663)である。唐・新羅の連合軍の前に、百済(くだら)の救援に赴いた日本軍は海戦で大敗した。
百済の遺臣らとともに引き揚げてきたが、ただちに唐・新羅の侵攻の脅威にさらされることになった。
天智(てんじ)天皇は対馬(つしま)・壱岐(いき)、あるいは筑紫の海岸線に沿って防人(さきもり)を配し、烽(とぶひ)を置いた。
同時に防衛を考えて、那ノ津から水城(みずき)の線まで大宰府を後退させた。大宰府の前面の、山地の狭く迫る所を土塁で結んだ。
この土塁(大堤)は全長1.2キロメートル、高さ13メートルに及ぶ長大な堤である。土塁には木樋(もくひ)を埋め、事あるときはこれに水を引き、土塁の前面の堀池に水を流し込んだ。
それゆえこれを水城と称した。
さらに、百済の遺臣たちをして、都府楼(とふろう)の後方の山に大野城をつくらせた。
すり鉢状の山の尾根伝いに、1周約6.5キロメートルの土塁や石塁を巡らし、北側の谷は、いわゆる「百間石垣」を築いている。
その要所要所には兵舎や武器倉庫、食糧倉庫などの建物がつくられたが、現在60余棟が確認されているという。
そのほか、肥前(ひぜん)の椽(き)城、対馬の金田(かねだ)城、讃岐(さぬき)の屋島(やしま)城および大和(やまと)の高安(たかやす)城などが相次いでつくられ、都までの軍事上の要衝地が固められた。
しかし、朝鮮の統一をめぐって、唐と新羅が争うこととなり、いちおう日本への攻撃は回避されることとなった。
その後、大宰府は、西海道の統轄と外交の任を与えられ、特別行政府としての体制を整えることになったが、その長官には大臣クラスの人物や皇族が選ばれることも多く、大宰府は、『和名抄(わみょうしょう)』で、「おほみこともちのつかさ」と訓(よ)まれ、また「遠(とお)の朝廷(みかど)」ともよばれ大きな権限を与えられることになった。
それに類する役所の起源については3世紀、卑弥呼(ひみこ)が伊都(いと)国に一大率(いちだいそつ)を置いて大陸交渉の監察にあたらせたこともあげられるが、6世紀の前半、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の平定後、宣化(せんか)天皇は那ノ津(なのつ)に官家(みやけ)を設け、諸臣に命じて軍粮(ぐんろう)を運輸せしめて非常に備えさせたことをあげるべきであろう。
だが、実際に「筑紫大宰(つくしのたいさい)」の名の初見は、609年(推古天皇17)である。推古(すいこ)朝は、新羅(しらぎ)問題がしばしばおこり、また遣隋使(けんずいし)派遣も始められるという外交上重要な時期だけに「筑紫大宰」の任も重かったようである。
大宰府の大きな転換期となったのは、白村江(はくそんこう)の戦い(663)である。唐・新羅の連合軍の前に、百済(くだら)の救援に赴いた日本軍は海戦で大敗した。
百済の遺臣らとともに引き揚げてきたが、ただちに唐・新羅の侵攻の脅威にさらされることになった。
天智(てんじ)天皇は対馬(つしま)・壱岐(いき)、あるいは筑紫の海岸線に沿って防人(さきもり)を配し、烽(とぶひ)を置いた。
同時に防衛を考えて、那ノ津から水城(みずき)の線まで大宰府を後退させた。大宰府の前面の、山地の狭く迫る所を土塁で結んだ。
この土塁(大堤)は全長1.2キロメートル、高さ13メートルに及ぶ長大な堤である。土塁には木樋(もくひ)を埋め、事あるときはこれに水を引き、土塁の前面の堀池に水を流し込んだ。
それゆえこれを水城と称した。
さらに、百済の遺臣たちをして、都府楼(とふろう)の後方の山に大野城をつくらせた。
すり鉢状の山の尾根伝いに、1周約6.5キロメートルの土塁や石塁を巡らし、北側の谷は、いわゆる「百間石垣」を築いている。
その要所要所には兵舎や武器倉庫、食糧倉庫などの建物がつくられたが、現在60余棟が確認されているという。
そのほか、肥前(ひぜん)の椽(き)城、対馬の金田(かねだ)城、讃岐(さぬき)の屋島(やしま)城および大和(やまと)の高安(たかやす)城などが相次いでつくられ、都までの軍事上の要衝地が固められた。
しかし、朝鮮の統一をめぐって、唐と新羅が争うこととなり、いちおう日本への攻撃は回避されることとなった。
その後、大宰府は、西海道の統轄と外交の任を与えられ、特別行政府としての体制を整えることになったが、その長官には大臣クラスの人物や皇族が選ばれることも多く、大宰府は、『和名抄(わみょうしょう)』で、「おほみこともちのつかさ」と訓(よ)まれ、また「遠(とお)の朝廷(みかど)」ともよばれ大きな権限を与えられることになった。
update:2009年08月21日
